<はじめに>
僕がラップを真剣に始めたのはかなり遅かった、1994年、18才のときのことだ。それまでヒップホップのシーンというものを目の当たりにしなかったため、しょうがないのかもしれない。(18才といえば、すでにデルが素晴らしいファーストアルバムを記し、しかもプロデュースした歳だ!)僕が親の転勤でアメリカに越したのは15才の時で89年だったから、アメリカで80年代に起きていること(ましてヒップホップなど)に関しては無知だった。高校時代は、カリフォルニアのメンロー・パークという平和な街で過ごした。受験を目前とした日本の中学生がカリフォルニアの高校に編入する際のカルチャーショックは、外国で育った僕でも慣れるのがかなり大変だった。アメリカの高校は、日本に比べたら小学校みたいに自由で、毎日遊んでいるだけだった。でも英語の勉強だけは大変で、毎晩、辞書を片手に泣きながら教科書を読んだのを覚えている。地元のスラングも間違えながら少しずつ習っていった。僕達の学年が白人生徒が過半数を占める最後の年だったが、白人系、ラテン系、黒人系の順に多く、アジア人は極めて少数派で日本人は僕を含めて数人という環境だった。その中でヒップホップにも触れる機会もあったけど、メディアではラジオやテレビでたまにお目にかかるだけだった(その頃はアメリカでも今のようにラジオは大々的にとりあげていなく、特定の番組枠がサポートしているだけであった)。ジャンル的にもまだ一部の有色人種による、過激な音楽という印象が強く、ヒップホップに対する社会的な弾圧も頻繁にあったのだ(そしてヒップホップはそれに反発していた)。友達が学芸会でラップをしたり、家に来て古いレコードプレーヤでできもしないスクラッチをしたり、色々と真似事はしていた。しかし僕はヒップホップに限らずラジオやテレビ、雑誌を通したマスメディアや、大衆スポーツ文化などを、カリフォルニアという派手な色眼鏡を通して毎日吸収していったのだ。

<バークレーより愛を>
さて、僕が大学へ進学しようと夏の余暇を楽しんでいる間にも我がベイエリア(サンフランシスコ湾域の意)では重大な音楽のムーブメントが起きていた。93年に高校を卒業してバークレーという街に移った僕は、大学の城下町をうろうろしながら音楽のパワーを初めて肌で感じた。UCバークレー大学(通称CAL=キャル)は、ご存知60年代には学生運動やヒッピー思想のメッカとなった場所で、今でもその精神は根強く生きている(と思う)。学校の体制自体はとてもアカデミックで伝統的なものの、構内から一歩踏み出せば、テレグラフ通りに様々な人種が織り交ざり、活気溢れる奇人変人(が普通)の街なのだ。そして、何よりも驚いたのが圧倒的なアジア人の数だ。アジア系学生の占める数は数十パーセントにも及び、アメリカの何処を覗いても考えられないことだ。しかも皆が熱心で家族の期待を背負って成功への道を直向きに歩いている。少々反省。日本人は2パーセントにも足らず、中国、台湾、フィリピン、ベトナムなどの人種が周りに多かった。

僕が大学の寮に入居した時のことを覚えている。男子階で最後の入居者だったために、皆から手厚い歓迎を受けた。そして、廊下の一番奥の部屋からカッコ良い音楽が常に流れていた。それがその時に最も勢いのある地元オークランドのクルー、デル率いるハイログリフィックスだった(丁度出たのはソウルズのファーストだった)。その部屋の入居者は、今は小学校の先生をやっている親友のデビッドというのだが、彼が先ず色々とベイエリアのシーンとマニアックなヒップホップについて教えてくれた。彼の高校はニュー・メキシコ州だったが、地元はサンフランシスコだったのでローカルなシーンについてかなり詳しかった。他にもロサンゼルスから来たジーンなど、既に耳が肥えている奴が多くて、びっくりした。同じ大学一年生でも、出身の地元によるマセ具合が雲泥の差だったのだ。高校時代は音楽を適当に聴いていた僕は、自分の周りでしかも同世代の子達が、全国的に躍進していることを知って応援したくなった。デルとかは前から好きだったし、その頃に地元の新聞で取り上げられているのを読んで興奮したのを覚えている。
色々な人に会うにつれて、レーベルに属していなくても活動を精力的に続けているアーティストの方がずっと多いことを知って、驚いた。路上で自分のアルバムや雑誌、詩集を売ったり、フリースタイル(完全に即興でラップすること)をしているキッズが沢山いた。皆が良い顔をしていた。ライブに通うようになると、MCやDJ、観客の中で顔馴染みがでてくるし、曲も覚える。会場で売っているテープを買って、配っているステッカーを争うように奪っては大切に持ちかえった。生でライブを観たり身近でブレイクダンスを見たりして感激すると共に、これがシーンというのか、と思った。始めはショーで手を挙げたり、歌ったり、踊ることさえ恥ずかしかった。しかし、徐々に触発されてそのうちに寮に帰って流行りのビートをかけては仲間とフリースタイルをしたり、冗談が真剣に転じるバトルを繰り広げるようになっていた。

少し遡って説明すると僕は昔から絵が大好きだった。どのくらい昔かと言うと幼児期にタンザニアで育った頃だ。だからヒップホップ文化の四大要素というものを改めて知って最初に挑戦してみたのは一番簡単な絵からだった。グラフの本を買ったり、アーティストから学んだりして自分なりに楽しんでいた。一度、飛行機の後ろの席に座っていたニューヨークのグラフライターが、自分は軍人でこれから韓国にある基地に駐在しに行くからと言って、降りるときに自分の大切なブラックブックとスケッチをくれたことも大きな刺激になった(DE、ありがとう)。

ある時は寮の部屋の壁と二段ベッドをグラフィティで埋め尽くしてひどく怒られたこともあった。僕の絵のスタイル的には、一コマ漫画チックだったので、本格的なエアソル・アートやボミング(外に描きに行くこと)に発展する前に、他のはけ口を見つけてしまった。それは地元アーティストのためのイラスト業だった。人にも絵を見せるようになって、デルやミスティック・ジャーニーメン(現リビング・レジェンズ)のコーリーと知り合ってからは色々と仕事が増えた。手作りの99セント(100円)雑誌の表紙をやったり、カセット・テープのジャケットやロゴのデザイン、ライブのチラシ等、頼まれたことは何でも(タダで)やった。コピー屋さんに入って雑誌を刷り終えたと思ったら、一緒に逃げさせられたこともあった、あった。その頃のライブは「インスタントラーメンを持ってくれば、半額」とかで、実際に何ヶ月もラーメンの生活をしていた不健康極まりない奴等もいた。仕事の報酬と言えば、ライブをタダで見れたり、新しい友達ができたり、つまり知らないうちにシーンの一員になっていたのだ。

<ジャパニーズ・ヒップホップとは何ぞや>
ある日友達がパーティーのチラシを持ってきた。バークレーの外れにジャパニーズDJがパーティーをやるという。これは珍しいことだと思い、問い合わせをして出かけて行った。このパーティーの正体は、95年からサンフランシスコ界隈では何ヶ月か1回というペースでクールテンポという名義で日本人DJ達が主催するイベントだった。僕が行ったのはまだ2回目くらいで、日本人同志ということで、簡単に仲良くなった(日本だとそうはいかないだろうけど)。この中でもだんだんとチラシの絵を描いたりMCをするようになって、定期的にライブもオーガナイズした。この時期は暴力沙汰が企画を台無しにしてしまうことも日常茶飯事で、ラップのイベントは敬遠されていたのでサンフランシスコとバークレーでは完全に違った雰囲気だった。このイベントを通してDJビルや、日本から修行に来たシン君や野沢君、三木君に出会った。
この辺りに「シンゴ2」という名前が産まれた。もともとMCは自分の名前でやりたかったので特に名前は考えなかったが、幾つかの要素が重なってシンゴ2を名乗るようになった。僕はグラフィティの名前に憧れを持っていて、名前+数字というフォーマットは古いライターやMCの間で良くある称号だ。アルファベットや数字のコンビネーションには無限の意味が込められる。周りにもう一人シンゴ君が居たためにあだ名を勝手につけられていたことも助けて、ボス・ワンというMCと一緒にやり始めた僕はシンゴ2をMCの名前に選んだのだ。(shing02とつづるようになったのは後のこと)。そして、一番大事なのだが、2という数字は僕が小さい時から、正確には母親から譲り受けたラッキーナンバーだ。今まで何かと2という数字がつきまとってきた気がする。自分の中では2という数字はバランス、次世代を象徴する記号だと思っている。

<「絵夢詩ノススメ」について>
「絵夢詩ノススメ」というEPは、僕が95年に初めて書いた日本語の曲、9曲が収録されている。また、後にDJ Qバートと録音した「先制口撃」というトラックがボーナスで冒頭に収録されている。MCで言えば、赤ちゃんのハイハイのようなものなのに、いきなりアルバムに録音してしまったのは何故だろう。事の発端を辿ると、シーンで色々な人と仲良くなっていく上で、サイトプラズムズというキワモノクルーの自称リーダー、ボス・ワンと出会って意気投合し(てしまっ)たからだ。僕がスワローズの野球帽をあげたのがキッカケで(先月会ったときまだ被ってたなあ)、彼が僕がラップをしていることも知らなく、ビートをプレゼントしてくれた。このビートは「帝国ニ告グ」という曲になった。そして、次に貰ったビートに初めて日本語で歌詞を書いてみようと思って書いたのが「JAPAN」という曲だ。日本語で書き始めた理由は特にないが、ひとつは日本語ラップを聴いたことがあったが、もっと自分なりに消化したスタイルをできると潜在意識的に思っていたことと(自分の好きなスタイルのヒップホップを日本語に訳せると思っていたこと)、ボス・ワンが大の日本ファンだったので折角だから、と思って書いてみたのだ。結果はシンプルな曲だったが、日本語で比喩を書くのは楽しかった。一曲目のやり取りをしているうちに、ある晩にボスワンが僕の家に彼のSP-1200(物凄く荒い音を出す古いドラムマシン)とレコードの束を持ってきて、朝起きたらEPのビート10曲近くが全部出来ていた。この時は本当にびっくりしたし、今でもどうやったのか不思議に思う。彼は色々な意味で唯一無比な才能と感覚を持った人なのだ。その日には曲を車の中で聴きながら、「このビートはこのテーマで行こう」などと話し合って進めて行った。これは今でも大事な作業だと思うが、ビートを聴いてその雰囲気がどういう曲になるか決めるのが一番面白い結果を招くと思う。まるで抽象画を見て、この題名はこれだ、と決める感じでそこからまた歌詞を捻り出していくプロセスは楽しい。

日本語の歌詞を書くのはさほど大変ではなかったが、なかなか終えないことをボス・ワンに怒鳴られてというか脅されて、しょうがないから友達の家に泊まりこみ、全曲ビートを録音したテープを頭から終わりまで聴きながら曲毎に歌詞を書いて、巻き戻しては書いた。最後に余った歌詞は一曲目にまわして、継ぎ接ぎにして「帝国ニ告グ」が完成した。
録音は、限られた予算のため、ボスの紹介でアモという奴のホームスタジオで一日で一発録りした。このため、ラフで初々し過ぎる箇所が沢山あるが、その辺は愛嬌です。スクラッチは、DJを務めていたビルが試験か何かで毎度のように都合が悪かったために、たまたま日本から遊びに来ていたシン君を引っ張ってきてこれも一日で終えた。アルバムはカセットテープに落として、歌詞の本もコピー屋で造って、次の96年の夏に日本に持っていった。当時はカセットでアルバムを仕上げることがアンダーグラウンドでは定番だったので、CDにしようなどとは全く考えていなかった。1000円で手売りもしたし、デモを配ったりもした。地元の仲間にはあげたり、5ドルで売った。この時のテープがメリージョイの肥後君やDJケンセイに届き、彼らの好意により今に至る素晴らしい関係が始まった。

その翌年の97年の頭にはその頃通っていたスティービーKのスタジオで多少のミックスの手直しや、ボス・ワンも昔から大ファンだったGMヨシさんや、これもサンフランで友達になったリノ君を迎えてインタールードなども録音した。ファーストシングルに、僕は「帝国ニ告グ」を迷わず選んだが、ボス・ワンは「日本性事情」が絶対良いと言って聞かなかった。僕はあの曲を書いて録音するのも恥ずかしかったくらいなので反対したが、ある時点で「そこまで言うんだったらとことんやろう」と逆切れをしたというか、開き直った末に、人の誤解を招く楽しさを覚えてしまった。どの曲も根底には大切なメッセージを込めていたし、ドキュメンタリーや映画もそのような手法をとっていることを参考に、ヒップホップの曲でも色々な層を作れることに気づいた。このアルバムで自分を試す機会がなかったら、一体どうなっていたのだろう、と思う。

「絵夢詩のススメ」は、ファーストシングル、セカンドシングル、EPと立て続けに出す予定だったのが、内部の空中分解でお蔵入りしてしまった。詳細はあっさり省くが、振り返れば自分の未熟さによるものでもあり、この頃の苦労のお陰で忍耐力が養われたといっても良いだろう。英語のことわざに「殺されないうちは、鍛えられているだけだ」というものがあるが、正にそんな感じだった。
そして何故僕が今、この初期作品集を出すに至るか。造り立ての頃はファーストアルバムとして発表する意図だったし、爽やかに振り返れば今やっている音楽の重要な基盤になったと思うので何らかの価値はあると願いたい。作者としては、何巻も続いている漫画の第一巻を読み返して、「う、なんだこの下手クソな絵は」と思うのと実に良く似ていると思う。実際に、「絵無詩のススメ」はこの文を書いている今も、ここ四年間くらい一度も聴いていないので勇気を出して再生ボタンを押してみようと思う。カチ

<最後に>
一つの作品を録音し、ライブを行う上で音楽以外の多くの重要なことを学んだ。「クルー」とは何なのか。MCとはどういう存在なのか。多くのクルーが名声を集めては消えて行き、多くのMCが成功しては忘れられて行った。自分の周りでもクルーという集団の中でお互いがどのように磨き合って活動を続けていかなければいけないのか、毎日問われた。これらのサガについては本が書けると思うくらい悩み抜いた。社会に出て行く過程で大切なことを色々と学んだし、それは今日も全く変わっていないと思う。独自のプロジェクトを企画し、お互いが集まる場所で作品を共同で造り、家路に着けば睡魔に負けるまで自分の音楽にコツコツと向かう。まさにラボ(研究所)に立て篭もる科学者のようだ。その反面、自分の過去を振り返ると、ヒップホップのアルバム造りも、小学校時代のお楽しみ会の劇もあまり変わらないと思っている。やはり型にはまらずに最も自分を出し切ることが、悔いを残さない上で一番大事なのではないかと思う。

どんなに小さい規模でも自分の意見を作品にして、それを人に聴いたり見てもらうことは凄い行為だと思うし、録音を可能にした最近の技術のお陰だ。また、完璧な作品などあり得ないし、常に成長をしている未熟なアーティストは、観客があってこそ育っていくものだと思う。そして、作品を世に出す側の責任も大きいと思う。僕も今日まで、沢山の人から助言やインスピレーションを受けて続けてこれた。継続は力なり、だ。また、僕を最も動かした言葉の多くは、冷たく厳しい批判だったことも書いておこう。

このCDが資源の無駄になっていないことを願いつつ、そして触れた人が録音された音楽以上の何かを感じてもらえればこれ以上嬉しいことはありません。
自分の人生を考え、行動をしているすべての人に尊敬の意を。

1/10/02 Oakland, CA
Shing02