一般的に響きの良い言葉ではないが、リスクを冒してこそ人生。
生活している以上すべてには何らかのリスクがあり、石橋を叩く生き方よりは多少リスキーでなくては面白味も欠けてしまうだろう。

その反面、リスクを考えることは「まだ起きていないことをあれこれ心配する」と言う受け身な行為だけではない。
社会において、リスクマネジメントとは「可能性を検証し、危機管理を行う」と言う、とても具体的で能動的な行為だ。

リスクと言う言葉は経済学、生物学、心理学、などで専門用語としても色々な定義があり、意味合いを明確にしない限り、誤解が産まれ易い。例えば、経済的なリスクと生物学的なリスクの主張がぶつかった場合、お互いにとって間違った価値観に映ってしまうし、同じ学問の中でも話し合いが必要だろう。

いま世界中で放射能による健康リスクが話題になっているし、常に何十年先までリスク管理を行っていかなければいけない。地域やメディアによってはリスクが取り上げられてないこと、明確に伝えられてないことが悩みになっている人も多い。

不透明な先行きを解決するためにも、まずはリスクを把握することが先決。そのために政府などが「正しいリスク教育」を広めようとしているが、情報ソースや研究の年代によってもデータに大きな開きがあるし、影響の誤差や個人差もあるので一概に言えない影響も多い筈だ。それらの不確定な部分も含めて、リスクを分かり易く共有することが大切だ。

以下は、さまざまな分野での「リスク管理」の体系と対訳をまとめたインフォグラフです。






PDF (959KB) /JPG (1.7MB)

リスクと言う言葉は良く使われるが、リスク管理という一連の作業は、段階に分かれた「学際的」な仕組みである。どのステップも責任重大な役割であり、それぞれの管理者の質と判断力が問われる。

「リスク管理の安全性」を高め、市民の理解に繋げるためには、正確なコミュニケーションが前提となる。

 

リスク管理に関わる者は、自分のステップと前後のコミュニケーションにおいて、以下の価値観を共有し、守ることが重要だ。

1. 透明性 (Transparency):判断基準、材料を開示すること。いつでも誰でも見れるようにしなければいけない。

2. 明晰性 (Clarity):分かり易さ。要点を筋道立てて説明すること。専門的知識も、視覚的にまとめることが課題。

3. 一貫性 (Consistency):法に準じていること、またこれまでの管理方法にも沿って行われていること。

4. 信憑性 (Reasonability):科学的データなど、最新の技術を取り入れながら適切な判断をすること。


リスクの管理人は「リスクを分かり易く、明確に伝えること」が最大の義務です。それが達成できていなければ「伝える側の責任」であり、リスクを知る権利のある大衆、「受け取る側のせい」ではありません。国民の危機管理能力を批判する人は、まずシステムを見直して改めるべきです。

政府や企業がいつでも環境と健康を尊重する、と信用できるに越したことはないのですが、現実的には利益を求める企業と投資家、それを規制する法律との熾烈なせめぎ合いがあり、企業を助ける抜け道や膨大な予算を使ったロビー活動(広報班)などはごく当然のことです。

よって、リスク管理の概念がさまざまな分野で体系化されたのもこの数十年の出来事で、査定と評価が別れて公正に行われるように、利害関係のチェック機能も必要です。

産業による自己申告が政府の甘い規制で通ってしまった場合など、「誰が監視役を監視するのか?(Who will watch the watchmen?)」と言うフレーズが浮かびます。(ユウェナリス、古代ローマの詩人)

日頃から安全を管理・監視することも大切なことですが、非常時に危機管理能力の真価が問われるのと一緒で、リスク管理のシステム自体が負荷テスト (stress test) に耐える力がなければいけません。安全性を保つ上では、システムが正常性を保ち、崩壊しない免疫力が絶対条件なのです。

仮にリスクの程度が大きかったり、システムに人為的な操作やミスが発生・混入した場合、リスク管理は正常に機能し、一般に伝達されるでしょうか?そして、リスクを許容する場合も、誰がどのような価値基準により判断し、どこで線を引き、そのこともちゃんと伝えられるでしょうか?共有されるリスクについて、どのような対策がされているのでしょうか?

上記の「TCCR」ガイドラインを提唱している米環境庁も「社会的なリスクは科学的な根拠のみでは計れないので、注意を払う必要がある」と明記しています。

ただ、皮肉にも米環境保護庁は「リスクを予防する」より「リスクを査定して許容する」と言うスタンスが多いので、農薬や遺伝子組み換え、放射性物質に慎重な国に比べれば、アメリカは巨大産業天国になってしまっている。ものによっては、自ら掲げている公約を破っていることになるだろう。その中でも、ひとつ重要な例を紹介したい。


                                                                                                                                    

( c l i c k    t o    z o o m )

CCD (Colony Collapse Disorder=コロニー・コラプス・ディスオーダー) と言うフレーズを聞いたことがあるだろうか。訳して蜂群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん)は、ミツバチの働き蜂が女王を置いて集団失踪すると言う、原因不明の現象である。

何故これが重大な問題かと言うと、果物、豆、ナッツ、野菜類の農作物1がミツバチのポリネーター(送粉者=そうふんしゃ)に受粉を頼っているからです。ミツバチが消えてしまったら、満足に作物が収穫できなくなるのです。

90年代から欧米で話題になっていたものの、2006年の暮れからアメリカでCCDの報告が相次ぎ、三割以上の農作物が大打撃を受けました。原因の諸説はウィルス、過労、長距離移動、電磁波、農薬など、共通点は何らかの外的要因、つまりミツバチに対する「ストレス」です。

ミツバチチームは数千にのぼる巣箱が大型トラックで全国を移動しているのですが、蜂は習性として巣の位置情報や花粉の選択を常時交信しているので「情報の混乱」は大きなストレスになります。

しかしながら5キロ以上もの距離を飛ぶミツバチの行動範囲からはストレスの原因を特定するのが難しいだけではなく、複合的な影響があることも多いに考えられます。食物の偏りなどで免疫が低下した結果、寿命が短くなっているとも考えられますが、死骸が見当たらないので失踪と言われているのです。

アメリカではCCDになった巣をガンマ線で照射してウィルスのDNAを破壊して一掃すれば、新しい蜂を入れると巣が復活することから(それで良いのか)、残った蜂のRNA (リボ核酸) を比較してウィルスの存在が左右していると言う結論に辿り着きました。

<農薬説>

有力視されている説のひとつ、農薬のネオニコチノイド(その一種、クロチアニジン)は、浸透移行性 (しんとういこうせい、systemic pesticide)であるため、散布された殺虫剤が植物体に吸収されます。残留性もあり、花粉や蜜にも残ることからミツバチへの影響も懸念されるようになりました。

農薬は害虫駆除が目的であるからして、効用の一つとして害虫の「免疫を攻撃し、方向感覚を喪失させる」のですが、それが米環境保護庁が「ミツバチには影響がある可能性がある」と認めた上で「少量なら問題ない」と言っても、影響がある可能性は拭えないのです。

90年代にフランスで問題になった時、ドイツのBayer製薬会社が行った自主調査では、ミツバチへの影響を50ppm (100万分の50の濃度)まで計りましたが、仏政府による再調査では3〜6ppmと言う更に低濃度でも影響が確認されました。このことから、ネオニコチノイドはフランス、ドイツ、イタリアなどで既に使用禁止されているのですが、アメリカでは使用が許されていると言う矛盾が産まれています。

リスクの定義の違いはどこに産まれているのでしょうか?

<予防と許容の違い>

フランスやドイツの法廷や政府が違法にしたものを、なぜアメリカの環境保護庁 (EPA)は「ミツバチには影響がある可能性がある」と認めた上で「少量なら問題ない」と許すのでしょうか?

極端は話をすれば大規模な農業こそ不自然だと言えるし、農薬や養蜂の是非はともかく、何をすべきかは科学的な「知識」を知らなくても、自然から「知恵」として教わることができる。知識は応用することによってのみ、知恵として残り、簡単に伝えて実践できる。

蜂と人間を置き換えて考えてみたら、どうでしょうか。リスク管理は査定から評価に至るまで、さまざまな人の判断が反映されます。査定の第一段階で、評価の対象が限定された環境なのか、もっと大きなスケールなのかにも評価の内容は大きく違って来ます。

不確定要素に晩生的、後天的な被害が含まれている場合は、リスク評価に何年、何十年も待てない場合が多いのも事実です。その中でリスクとベネフィット(危機と利益)をバランス良く保って行くのが健全な社会だ。

政府や企業は多大な影響力を持っていますが、組織の利益に振り回されず、長い目で社会を守る責任があります。利益を求めるか、安全を求めるか、それをどちらかのバイアス(偏見)と呼べばそれまでだが、モラル(道徳)でもあります。それはジャーナリストや市民がリスクを伝える場合も、責任が問われるレベルはさまざまであるにせよ、同じことが言えます。

これまでの歴史から学べば、行政がすることは間違いも多い。そこで被害者は正当な補償を待っていても、その期間は被害の受け損になってしまうことは必至です。そのトラブルを避け、身を守るためにも共同体の本来のあり方を考え直すことが大事です。

自然環境、国際社会、国、県、市町村、会社、友人、家族、そして個人、体内と、さまざまなマクロとミクロの情報の輪があります。その中で回る情報、リスクは場によって違うからこそ、透明性の高い組織がリスク管理を行い、その上でリスクコミュニケーションをとることが肝心ではないでしょうか。

1豆類、ナッツ系、菜種、果物(柑橘系、林檎、キーウィ、チェリー、ベリー類、イチゴ、メロン)、野菜(ブロッコリ、アボカド、アスパラガス、セロリ、キュウリ)など


                                                                                                                                    




リスク管理グラフの結果、リスクを理解したとして、生活の範囲内で何を意味するのかをもう一回考えてみよう。
「危機や損失が起きる可能性」と定義すれば




と、まずリスクが起きる可能性=確率で考えることが第一に浮かぶ。(方程式ではなく、定義として)

次に、何のリスクかによって確率が高くても許容できるものや、低くてもリスクがあるだけで問題と感じることもある。
言い換えると、




となる。一般的にはリスクの「大きさ」とも言うが、敢えて「深刻度」と名付けよう。
確率が低いからと言って深刻度が高ければ、その分だけ高いリスクにもなる。

天災や病気のようにすぐに起きる可能性が少ないと分かっていても、起きた時の深刻度は変わりません。知らなければ心配しなくて良いことも、被害が大きければ高いリスクと呼べる訳です。逆に少ない可能性も明確に分かっている程、避けた方が良いと思うのも人間の本能ではないでしょうか。だからどこに目を向けるか、その余裕があるのか、どれだけ対応できるがカギになってくる訳です。

しかし冒頭で述べたように、世の中リスクだけを考えていたら生活も仕事もままならない。そこで、




と考える。つまり、リスクを知った結果、どう受け取るかはその人の価値観とタイミング、気分次第で、大したことないと思えばその通り。立場が変われば望ましいと思うさえあるだろう。それが健康を損なうリスクだったとしても、問題だと思わなければいくらでも許容できてしまうと言うことです。価値観もそう簡単に変わるものではないので、その人がそう思わなければ説得するのも難しいものです。

健康を車に例えると、メンテナンスを定期的にしている人と、車は動けば良いと思っている人との違い。
愛車を長持ちさせようと大事に乗っている人は「ちょっとならぶつけられても良い」と思わないだろうし、オンボロを運転している人は、新しいキズを見つけて激怒する割合は少ないでしょう。車に例えるついでに、胎児や乳幼児の健康に関しては、車の「組み立て中」にダメージがあってはいけないと言うことです。成人の場合は免疫も含めて自己修復、修理が可能なパーツもありますが、それもどこまで免疫に対するストレスを許容するか、嗜好品と違って選択権はあるのか、どこからが修復不可能なダメージになるのかを見極める必要があります。

そして、 いくら個人の価値基準でリスクを感じても、社会の一員としてはそう優先できるものではない。




とした場合、家族や仕事など色々な義務や制約があるのが人間ですから、いかに危険な状況であろうとリスクを顧みず行動する人が沢山います。普段の仕事でも多くのリスクを伴う職業があるし、個人の経験やスキルに合わせてストレスへの適応能力も違います。ただ、その際に「リスクを選択」するためには先に「リスクを理解」することが前提です。だから、リスク管理する者が正しい情報を分かり易く伝えることがもっと大前提にになるのです。そのことが出来ているかどうか、色々あてはめてみてはどうでしょうか。


リスクを理解し、確率を予測し、深刻度を理解し、価値観を問い正し、優先順位を考える。
このプロセスからどの要素も軽視することはできない。

組織の価値観を優先したり、家族や生活の事情があったり、それも人の数だけ存在し、天気のように変わっていくのが社会の姿。リスク管理とは、単に科学的な検証や事務的な作業ではなく、全員が関係する社会問題である。

 

リスクにフォーカスすることも、全体が見えなくなるリスクがある。どんなに有害なものも無害に見せれる反面、どんな無害なものも有害に見せることも簡単である。大袈裟なリスク計算に見えたら、では自分にとっては「どこまで行けば」、どんな状況になったら正当なリスク評価になるかを問い正してみると良い。

 

あらゆる公害、日常生活の消費や道具など、リスクを上げ出したらキリがないが、かと言って論議を避けて通る訳にはいかない。どんなに話し合っても、安全も事故も既成事実としてのみ、あらゆるコストが試算された上で、リスク計算や保険・保健に組み込まれる。ましてや、さまざまなリスクが相乗効果的に、あるいは相殺し混在する世の中で、なんでも酒・タバコ・交通事故と比べて済ませれるような安易な話ではない。そのようなずれた論点で話し合っても有益なことは産まれない。要は自分で判断して、周りと意見を共有しながら言動に繋げて行けば良いのである。

ことに放射能や電離放射線による人体への影響に関しては、最新の研究結果も含めて、膨大な情報を吟味するのには時間を要する。リスク管理グラフでも分かる通り、これまでの疫病学のデータだけでなく、細胞や遺伝子の話をしなければ科学的な根拠に欠ける。周期表や細胞、遺伝子の図を見せて放射能のリスクを解説しているニュースやサイトがどれだけあるだろうか。いちばん大切な部分であるにも関わらず、殆ど無いと言って良いだろう。

内部被ばく、がん、免疫能力の仕組みなど、細胞の中の宇宙で起きていることは、1+1=2というシンプルな話ではない。何百、何千と言う情報伝達が関わっている膨大で複雑なメカニズムだ。たったひとつの栄養素がどのような経路で細胞に取り込まれ、それが欠乏した場合はどうなるかなど、誠に精密なシステムで原子レベルではまだ謎も多い。それだけ人体は繊細であり、すべて自然で無意識に起きていて、素晴らしく丈夫でもある。

「僕と核2011」 レポートでは分かっていること、分かっていないこと、論点になっている所を含め、そこに焦点を当てなければ意味はないと思っているので、 引き続きお付き合い願いたい。

最後に、市民として、いかなるリスクに対しても安全を守る権利の正当性を忘れてはなるまい。聞き入れられるかはともかく、それが人権と言う、戦後の日本に産まれた民主主義の礎(いしずえ)になっているからだ。





EPA Risk Characterization Handbook
http://www.epa.gov/spc/pdfs/rchandbk.pdf

Special Thanks:
ナベショーのシニアライフ(養蜂)
http://nabe-sho.cocolog-tnc.com/fujieda_/cat5621566/index.html

<CCD LINKS>
scientific american
http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=bees-ccd-virus&page=2
the environmental blog
http://www.theenvironmentalblog.org/2007/03/clothianidin-a-neonicotinoid-pesticide-highly-toxic-to-honeybees-and-other-pollinators/

documentary links:
http://www.queenofthesun.com/
http://www.vanishingbees.com/

<ネオニコチノイド>
クロチアニジンの創製と開発 住友化学
http://www.sumitomo-chem.co.jp/rd/report/theses/docs/20060202_h6t.pdf
EPA
http://www.epa.gov/opprd001/factsheets/clothianidin.pdf
http://ddr.nal.usda.gov/bitstream/10113/1587/1/IND43769968.pdf

農薬と放射能の安全について 内田又左衛門(正常運転時でも問題ありですが、関連性が興味深い)
http://www.foocom.net/column/ps/2977/