コンセプトとは、概念。

何がどうなって、どうなると言う仕組みを学ぶことである。

データとは、情報。

それは言葉、記号、値、それらを受けた人々の反応だったりする。


1+1=2 の足し算を理解するためには、「数字と数字を足すと別の数字になる」と言うコンセプトを学ぶことが肝心である。そうでなければ、「1+1=2」と言うひとつのデータとしてしか暗記してない脳は、1+2の答えが分からない。

子供に始めから電卓を与えた場合、いくつになっても自分の力で足し算をすることはできないだろうし、その必要性も感じないだろう。

それと一緒で、人間は「コンセプト」と「データ」が一致して初めて自分で物事を考えられるようになる。

コンセプトを教わらずにデータだけを記憶しても応用できず、コンセプトだけ教わってデータがなければ適用できない。

両方とも非現実的なものと見なされてしまう。

つまり、


「コンセプト抜きにしてデータは意味を持たず、データを抜きにしてコンセプトは信用できない」


あるいは 「概念抜きにして情報は意味を持たず、情報抜きにして概念は信用できない」


と言うことになる。

昨今のメディアやニュースにおいては、データだけが溢れてコンセプトが全く浸透していない場合や、隠されていることすらある。

メディアにそのような傾向があると言う概念すら無い人には、報道を信じて疑わない傾向が続くだろう。

同時に、コンセプトは立派で注意を惹くものでも、データが乏しければ説得力に欠けると言うことになる。
だから一般的には権威のある発言を社会的に信用してしまうのも当然なのだ。



はるか昔、天動説と地動説と言う意見の対立があったのはご存知だろう。と言ってもたった四百年前の話だ。
「地球を中心に天体が回っている」と言う保守派と、「地球は太陽の周りを公転している」と言った革新派に別れたのだ。天動説は千年以上の歴史があり、カトリック教会も公認していたため、権力を持つ保守派が圧倒的多数だった。地動説の「コンセプト」は保守派にとって都合が悪かったのでバッシングが続き、望遠鏡が登場しても「非科学的な道具だ」と新しいデータは無視され続けた。しかし異端だったコンセプトも、それを裏付けるデータが世の中にどんどん出回ることによって、権力も敗北を認められざるを得なくなったのである。

天動説と地動説ほど大袈裟な違いはそうないかもしれないが、所詮、人間の知恵はこのようなことを繰り返してきたのである。明らかな間違いを指摘された権威がそれを認めることは稀である。それは自己否定に繋がるからだ。地動説を唱えて裁判で有罪にされたガリレイも、他の説では勘違いを認めないと言う点でまったく同じであった。

新しいコンセプト=概念は、すぐに受け入れられることはないが、データが出て来ることによって徐々に変わって行く。同時に、データによって立証できないものは淘汰されて行く。これは科学的な根拠だけではなく、社会的な人気・不人気が商品を選んで行く「流行」にも同じことが言える。

コンセプトとデータ、概念と情報、どちらにも偏り過ぎずに学び、自分にとって必要なものは何かを見極めることが基本だ。


「真実を知らないのは無知なだけだ。だが、真実を知っていてそれを嘘と呼ぶのは犯罪である」ガリレオ・ガリレイ



top